|
マリアの爪痕 33.遠吠え またやってしまった。 は顔を上げることができず、自分の膝をじっと見つめているのが精一杯だった。スクルドが皮肉な笑みを浮かべてを見下ろしている。満足げにも聞こえるわざとらしい溜息に、自分は何をしているのだろうと思わされてしまう。そう・・・またやってしまったのだ。 先日行った筆記テストの復習をすると言い、スクルドは真っ先に質問の矛先をに向けた。そして例の如く、質問に答えることができなかったのだ。 質問の答えがわからなかったわけではない。前回のテスト範囲なのだから、記憶を辿ればすぐに答えがわかったはず。しかしいざ口を開こうとすると、スクルドの嫌味の言葉が脳裏に蘇り、体中が緊張してしまう。そのあげく、ろくな声も発せずに「わかりません」と小さく首を振ることしかできなかった。 また怖がるだけで、私は何もできない。 入学当初と何も変わっていない自分の臆病さに、涙が出てしまいそうだった。 「これくらいの問題を解けないようでは、学年末試験もままならないだろう」 「・・・・・・っ・・」 「もっと予習復習を重ね、勉学に励むように」 大袈裟な溜息を零し、スクルドはの前を通り過ぎていく。 「・・・もっとも、あまり遅くまで起きていないほうが良いとは思うがね」 小さな呟きはおのずと耳に入り、はその後ろ背を見て首を傾げた。 いったい何のことだろう? 思案にくれてみても、その答えはわからなかった。 授業後、はプラムとモニカの二人とともに医務室を訪れていた。壁際の中央のベッドで寝ている赤毛の女の子を見つけ、は早足にその隣へと近づいた。 「リリー、具合はどう?」 ベッドで寝ているリリーの額には水に濡れたタオルがあり、その頬は少し赤く上気している。心配そうに自分を見つめるに、リリーは「大丈夫」と微笑んでみせた。薬品棚の前にいたマダム・ポンフリーは少し呆れたような顔をしてベッドの脇に水の入った桶を置く。そこには誰かからのお見舞い品なのか、いくつかのお菓子が置かれていた。 「まだ安心はできませんからね。私は今夜所用で学校を離れますが、きちんとベッドで寝ているんですよ」 リリーは昨日から体調を崩していた。発熱してからは授業に出られる状態ではなくなり、昨夜からマダム・ポンフリーにここで絶対安静を言い渡されている。見たところ熱は少しだけ下がったようだが、まだ微熱が残り続けているらしい。取り替えたタオルは生温く、はすぐに冷たい水に浸して搾り、額にあてた。 「でも、昨日よりはずっと楽になったのよ」 「それでも油断してちゃ駄目よ。風邪ってしつこいんだから」 「そうそう。今はしっかり休んでね」 ごほごほと咳交じりに言葉を紡ぐリリーに、プラムとモニカが念を押す。はこくこくと頷き、リリーにはしっかり風邪を治してほしいと訴えた。 本当は淋しい気持ちも大きいけれど、いつまでもリリーに心配をかけたくはない。今は風邪を治すことに専念してもらわなければ。 そんなの気持ちを悟ってか、リリーは緑色の瞳をに向け、そっと問いかけた。 「。なんだか元気がないけれど、何かあった?」 その言葉に、は首を振った。 「・・っううん、ただリリーが心配なだけだよ。だから早く治してね」 「・・・わかったわ。でも、何かあったらすぐに教えてね」 曖昧に頷きながら、は控えめに笑ってみせた。 リリーが隣にいてくれないと、本当はすごく心細い。だけど、いつまでもリリーに頼りきりじゃいけない。リリーに心配をかけちゃいけない。 私はもっと、頑張らなくちゃ。 闇の深い真夜中のことだった。ふいに目が覚めてしまったは目を擦り、黒い空を見た。窓に月明かりはなく、部屋の中は真っ暗だった。 いつもならこんな時間に起きたりしないのに。 不思議と自分の目がさえていることに疑問を感じ、はゆっくりと起き上がった。 静かな夜だ。ときどき吹き荒ぶ風が窓を叩くものの、他に音はない。しかし、はその無音にも近い空間の中で何かを聞いた気がしていた。どこか遠く・・いや、そんなに距離はないかもしれない。だがどこからか何かの音が聞こえてくる。耳を澄まし、はその音に集中していた。少しずつ大きさを増してきたそれは、獣の吠える声によく似ていたように思う。 「・・・・・・狼・・・?」 禁断の森から狼の遠吠えが聞こえてくるのは珍しいことではない。だがは今まで、その遠吠えで目を覚ましたことはない。狼がホグワーツの周辺にやってくることはないし、聞こえても遠くからだろうと気にならなかったのだ。 しかし、今夜は違う。狼の吠える声はだんだん数と大きさを増し、まるでこちらに近づいてきているようにも聞こえる。 「何の声・・・?」 プラムが起き、誰にともなく呟いた。はさっとローブを羽織り、杖がポケットに入っていることを確認した。 「私、ちょっと談話室に行ってくる」 こんな大きさで狼が吠えているのだから、きっと他に起きている人たちがいるだろう。そう思ったはモニカを起こすプラムに言い置き、寝室を出た。 談話室には既に何人かの生徒たちが集まっていた。その中に男の子四人組の姿を見つける。 「、起きたんだね」 「うん・・・いったい何の騒ぎ?」 「わからねぇ。今シルフとローレライがマクゴナガルの所に行ってる」 ほとんどの生徒の視線の先は寮の入り口であり、みんな監督生であるシルフとローレライの帰りを待っているようだ。時折窓を覗く者もいるが、月明かりがないため外の様子はほとんど窺えないようだった。 しばらくは誰もがぼそぼそとこの騒ぎについて話し合い、落ち着かない様子だ。 何なんだろう・・・・すごく嫌な感じがする。 はざわつく胸騒ぎを抑えようと、ソファのクッションを抱き締めた。リーマスが心配して声をかけてくれたが、どうしても落ち着かない。 結局シルフとローレライが姿を見せたのはもう少し後のことで、リーマスがココアを入れようと立ち上がったときだった。ほとんどの生徒たちが寮の入り口へと詰めかけ、声をかけていく中、は必死にシルフの声を探った。 「シルフ、何かわかったのかい?」 「ああ、今から説明するから。みんな、落ち着いて聞いてほしい」 真っ先に駆け寄ったジェームズの肩を叩き、シルフは真剣な面持ちでみんなに声をかけた。その隣にいるローレライ・ソレントは、何かを警戒するかのように瞳を細め、忙しなく談話室を見回している。 「ホグワーツの敷地内に、山狼の群れが侵入したらしい。まだ詳しいことはわからないけど、今先生方と七年生の監督生たちが追い払う策を考えてる」 沈黙を守っていた生徒たちは、「山狼」という単語を耳にした瞬間、たちまち恐怖を露にした。その反面、シルフはそれを宥めるように、落ち着き払った態度を崩さなかった。 「僕たち五年生と六年生の監督生は、城内を巡回するよう言いつかってる」 「もしかしたら、既に狼が城内に侵入している可能性もあるわ。だから、その他の生徒は絶対に寮から出ないこと。いいわね?」 シルフとローレライはみんなにそう呼びかけ、足早に寮を出ていってしまった。二人が去った後の談話室には控えめなどよめきが広がり、生徒たちはあれこれと議論を続けていた。 いったいどういうことだろう?山狼がホグワーツに侵入してくるだなんて。今までそんな前例があっただろうか? はとにかく早く騒ぎが収まってくれることを願った。そのとき、上級生の誰かが溜息を吐き、近くの友人にこう言っているのが聞こえたからだ。 「こんな日にダンブルドアがいないだなんて・・最悪だよ」 「しょうがないよ。校長先生も忙しいからね」 苦笑してそう答えた上級生を見た後、ははっとなり、あることを思い出した。 ダンブルドアがいない。それと同じように、今夜はマダム・ポンフリーもいないのだ。つまり、リリーは今医務室に一人きりで、この騒ぎのことも知らない。リリーは熱でろくに動けもしないのだ。きっと一人で狼の遠吠えを聞き、不安になっているのではないだろうか。 そう思いついた途端、は青ざめた。 どうしよう・・・!リリーに知らせてあげなきゃ! 慌ててジェームズたちに助けを求めようと後ろを振り返ったが、そこにジェームズやシリウスたちの姿はなかった。代わりに視界の端で男子寮へと駆け上がる人影を見つけ、は反射的に階段を上った。 勢いづいて男子寮の扉の前で立ち止まってノブに手を伸ばしたものの、一瞬の躊躇が生まれる。女子である自分は男子寮に入れないわけではないが、はたして無断で入っていいものか。 迷ったがおろおろし始めたとき、閉じていたはずの扉が突如開け放たれる。は思わず扉に激突しそうになったが、すんでのところで避けることができた。しかしそこで、は信じられないものを目にする。 なんと彼女の目の前には、ジェームズらしき人の頭と、誰のものかわからない一本の腕が浮かんでいたのだ。 「・・・・・っ?!・・んぶ!!」 「シーッ!」 持ち主の見つからない一本の手が、悲鳴を上げかけたの口を塞ぐ。は驚いてばたばたと暴れるが、「騒ぐな」と言ったその声に聞き覚えがあり、ぴたりと抵抗をやめた。 この声は、もしかして・・・。 宙に浮かんで困ったような顔をしているジェームズが、ばさりと何かを脱いだ。 「・・・・シリウス?」 ようやく腕の持ち主を確認し、はおそるおそる問いかけた。シリウスは「いきなりごめん」とバツが悪そうに謝り、ジェームズを睨みつけた。 「どうすんだよ」 「どうするって・・・ねぇ?」 曖昧に笑ったジェームズは素早くの手を取り、男子寮の中へと引っ張り込んだ。そしてある一室まで走らされ、はぁぁと長い溜息を吐く。 連れてこられた場所は、ジェームズたちの寝室のようだった。ベッドに座っていたリーマスが驚いたように顔を上げ、と二人とを見比べている。 「何でがここに?」 「そこでまんまと見つかった」 「・・・・」 リーマスは明らかに眉根を顰め、先ほどのシリウス同様、「どうするの?」とジェームズに問いかけた。 ジェームズは少し考える素振りを見せ、にどう説明をしようか迷っているようだった。は勇気を出し、先ほどからずっと気になっていた疑問を口にした。 「あの、その・・何で二人は・・・・」 「ああ、見えなかったかって?・・・・・・答えは簡単。透明マントだよ」 「透明マント?」 「いいのかよ、言っちまって」 「いいよ。この際だし、には話しておこう」 肩を竦めたジェームズはばさりと音を立てて何かを広げ、それを頭からすっぽりと被った。 「あ・・・!!」 すると、どういうことだろう。透明な何かを被った途端、ジェームズの体が綺麗に消えてなくなってしまったのだ。目を瞠って驚くに、姿の見えないジェームズが声だけで説明をしていく。 「これは僕の父さんからもらったものなんだ。バレンタインデーの日も、これを使って大広間の天井を飛んでたってわけ」 なるほど、だから最初誰もジェームズとシリウスの姿に気がつかなかったのか。 感心するの前でマントを脱いだジェームズは、急に真剣な顔つきとなってを見据えた。 「医務室にリリーがいるんだろう?」 「そ、そうなの!・・私、どうしたらいいかって・・・」 ジェームズの言葉に、ははっと息を呑んだ。 こうしている間にも、リリーは一人で怖い思いをしているかもしれない。悠長にしている暇などないではないか。 顔色の良くないの肩を叩き、安心させるようにジェームズとシリウスが口を開いた。 「大丈夫。今から僕たちが医務室まで行ってくるから」 「っで、でもそれじゃあ、ジェームズとシリウスが危険なんじゃ・・!」 「僕たちは平気さ。でも、寮を出ることは禁止されてるからね。とりあえずはこれを着て寮を出るつもりだよ」 「そういうことだ。俺とジェームズでエバンスの所へ行ってくる。お前はここでリーマスたちと待ってな」 シリウスの言葉を受け、リーマスとピーターが頷いた。しかし、は同じように頷くことができなかった。 「あ、あ・・・待って!」 再び透明マントを被ろうとした二人を引き止め、は思い切って願い出た。 「私も・・・・私も連れていって!」 「はぁっ?!」 ローブの裾を握り締めて言ったに、四人は声を上げて目を見開いていた。まさか、あのがこんなことを言い出すとは思いもしなかったからだ。 しかしそんな積極的な願い出も、今のこの状況ではやすやすと許せるものではない。シリウスはすぐに首を振って反対した。 「もしかしたら本当に狼が城内に入ってるかもしれないんだ。そんな所にお前を連れていけるかよ」 「で、でも!私・・」 は言いよどんでから、自分の発言がどれだけ無謀なことか気がついた。 私は簡単な呪文もろくに使えない役立たずだ。しかも臆病で、泣いてばかりの弱虫で・・・そんな私が二人についていっても、ただの足手纏いにしかならないことは明白だ。きっとリリーの傍に行ったって、私は何もできない。 わかっているつもりだった。自分が無力なことも、それを見越してシリウスが反対してくれていることも。でも、それでも私は、リリーのことが心配だった。早く傍に行って、少しでも安心させてあげたかった。 そんな思いを悟ってか、ジェームズは俯くに、明るい調子で言葉を述べた。 「・・・いいよ。もリリーを助けに行こう」 「ジェームズ?!」 了承の言葉を述べたジェームズに、自身も信じられない気持ちにさせられた。他の三人も「何を言ってるんだ」と、ジェームズに詰め寄った。 「いいわけねぇだろうが!」 「そうだよジェームズっ、僕は二人が医務室へ行くことも反対なのに・・!」 「だってリリーが心配なんだよ。それに危険になったら、僕たちが護ってあげれば済む話だろう?」 あっさりとそう言ってのけたジェームズに、シリウスはうっと言葉を詰まらせた。 どうしてコイツは、こんなに自分に自信を持てるんだろう。 「・・・・わかったよ」 思うことは多々あるものの、早々に諦めをつけ、シリウスはを透明マントの中へ招き入れる。どうせ一度言ったら聞かないんだ。それよりも、今は時間が惜しい。 隣ではリーマスが心配そうに眉根を下げており、「大丈夫だ」と一言声をかけることしかできなかった。これ以上心配をかけるのはさすがに心苦しいが、今はこれくらいしか言えなかったのだ。 「いいか、何があっても俺たちから離れるんじゃねぇぞ」 「・・うん!」 返事に満足したように小さく笑ったシリウスに、は笑みを返す。透明マントからはみ出ないよう注意しながら、シリウスのローブを掴んだ。 「さあ、行くよ」 ジェームズ、シリウスの二人とともに、はグリフィンドール塔をあとにした。 |