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マリアの爪痕 06.初めての飛行術 教室の窓から覗く空は、白い雲を散りばめた明るい青色をしている。 地上に降り注ぐ日光も程よく温かいもので、授業中であるというのに何人もの生徒から欠伸が漏れた。 シリウスも例外ではなく、むしろ意欲的に居眠りにしゃれ込もうとしていたところだ。 だが、いつもなら一緒に退屈を有意義なものに変えてくれる相棒の様子が、今日はどこか違った。 合間を縫っては窓の外を眺め、何やらうきうきとした表情を見せている。 怪訝に思ったシリウスは、そっと小声でジェームズに問いかけた。 「ジェームズ、窓の外に何かあるのか?」 「何を言ってるんだい、シリウス!今日は初めての飛行訓練の日じゃないか!!」 「・・・・あ・・っ」 熱っぽく語るジェームズに肩を叩かれ、シリウスははっとした。 そうだ、今日は授業で箒に乗る日・・飛行術の授業がある。 机に向かって羽根ペンを走らせる退屈な授業なんかより、ずっと面白いに決まってる。 シリウスは隣のジェームズと同じように、窓の外を見て表情を緩めた。 「どうしましょう・・わたし、今まで一度も箒で飛んだことがないの!」 「きっと大丈夫っ。リリーならちゃんと飛べるよ!」 「そうかしら・・」 校庭へ向かう最中、リリーはに不安をぶちまけていた。 マグル出身である彼女に、箒で空を飛ぶという経験はない。 箒に乗るということの感覚が掴めないだろうし、何より本当に飛べるのかも疑わしいのであろう。不安に思うのは当然のことだ。 表情が依然硬いままの彼女を励まし、は校庭に足を踏み入れた。 今日は絶好の飛行日和と言えるほどの快晴だ。 芝生は明るい緑色に輝き、太陽が程よい暖かさを感じさせている。 とリリーは学校の箒を手に、既に校庭の中心に立っているマダム・フーチの傍まで駆けていった。 授業が始まる時刻となり、生徒たちは向かい合うように二列に並んだ。 マダム・フーチははっきりとした口調で的確な指示を与える。 「皆さん、今日は初めての飛行訓練です!まずは箒に手を翳し、『上がれ』と命じなさい」 やってみて、という言葉を合図に、一同は口を開いた。 隣ではリリーが何度か上がれ!と言った後、箒が吸い込まれるように彼女の手に納まるのが見え、は自分のことのように喜んだ。 前の列では、余裕綽々の笑みを浮かべながらジェームズとシリウスが箒を握っている。 はこうしてはいられないと、意気込んで言葉を発した。 「あ、上がれ!」 すると箒は瞬く間に柄を起こし、そのまま流れるようにの顔面を直撃した。 は小さく悲鳴を上げ、痛む鼻と眉間の辺りを擦った。 リリーが心配しながら声をかけてきたが、周囲からくすくす笑いが聞こえてしまい、はすぐに俯いた。 箒を両手でぎゅっと握り締め、恥ずかしさに奥歯を噛み締めた。 「全員、箒を持ったら跨って!私の合図で地面を蹴り、宙に浮かんで下さい。そして、十秒で下りてくる。いいですね?」 次の指示に不安を覚えながらも、は恐る恐る箒に跨る。 箒の柄は強く握ったままで、足は心なしか震えていた。 「一、二、三!」 何人かが地面を蹴り上げ、宙へと浮かび上がった。 隣にいたリリーも、先ほどの不安が吹っ切れたようにほっとした笑顔を見せている。 だがはというと、まだ地に足の裏を縫いつけたままだった。 「っ、地面を蹴ってみて!きっと上手く飛べるわ!」 「で、でも・・すぐ落ちちゃうかも」 「大丈夫よ、さあ!」 周りにはまだ箒に跨ったまま浮かべずにいる生徒の姿もあったが、はなんだか自分だけが恥ずかしく、浮かべずにすぐ落ちてしまうような気がした。 無事に着地したリリーに肩を叩かれ、頑張ってと声援を送られる。 は数度の深呼吸をした後、思い切ってとん、と地面を蹴った。 「あれ・・・・え・・っ?」 一瞬だけ、はふわりと宙に浮かび上がる。しかし、それは本当にほんの一瞬だけのこと。 すぐに足が地面についてしまい、十秒でも宙には浮かんでいられなかった。 やがてはぴょん、ぴょんと地面を蹴り続けるが、何度やっても結果は同じだ。 マダム・フーチは生徒たちの様子を伺い、宙に浮かんでいる者となかなか飛び上がらない者とを見比べた。 飛行術はやはり個人差が大きい。もうそこら中を飛び回れる生徒もいれば、未だに宙に浮かべずうろたえている者もいる。 少し思案にくれた後、マダム・フーチは甲高く笛を吹いて皆の視線を集めた。 「この後は自由練習とします!指導を受けたいものは私のところへ来なさい」 はマダム・フーチの許へ行こうかと一瞬躊躇うが、一人で行くことに少なからず不安が募る。 それを察したのか、リリーはの手をひいて他の生徒たちの群れから離れた。 今までは、一度も箒の訓練を受けたことがなかった。 あまり外に出ない生活を送ってきたせいもあるが、リリーはすぐに飛べたのにと思うと、やはり誰よりも自分が劣っているような気がしてならない。 はそっと溜息を零し、少しでも長く浮かべるように頑張ろうと、力強く箒の柄を握った。 「、一緒に飛んでみましょう」 「うんっ」 横へ並んだリリーが上昇したのを合図に、も地面を蹴った。 さっきより強く地を蹴ったと思うのだが、浮かんだ高さに大差は感じなかった。 そして、一瞬の浮遊の後の落下に肩を落とす。 隣を見上げると、リリーが申し訳なさそうに箒に乗りながらを見下ろしている。 自然との気持ちは沈んだ。 もしこのまま飛べなかったら、自分は他のみんなが自由に空を飛び回っている中で、ただ一人だけ地上に取り残されてしまうのだろうか。もしくはぴょんぴょんと飛び跳ねる滑稽な姿をし続けるのかもしれない。 それは酷く悲しいことだ。 は心を襲う絶望感に苛まれた。 「、気にすることないわ。練習さえ続ければ、ちゃんと飛べるはずだから」 「そう、・・かな」 「おーい!!」 暗い表情のに励ましの言葉をかけたリリーは、声のした頭上を見上げて眉間に皺を寄せた。 遥か高い空から二人に大きく手を振っているジェームズが、シリウスと並んで降下してきている。 もう存分に大空を飛び回ってきた後なのだろう。二人の顔は満足感に満ち溢れていた。 優雅に着地したところで、リーマスとピーターも歩いてこちらに向かってきているのが見えた。 リリーが男子四人の登場にいい顔をしないのはいつものことだ。だが今回ばかりは、も表情を曇らせた。 できないところを見られるのは、決して嬉しいことではない。 元気のないに気付いたのか、小走りしてやってきたリーマスが優しく問いかける。 「、どうしたの?」 「なんか元気ねぇな。せっかくだから、高い所まで行ってみたらどうだ?すっげー楽しいぜ?」 「ブラック!!」 気を利かせたつもりのシリウスが軽くそう言うが、即座にリリーの一睨みで全てを悟った。 高い所まで飛んでみたいのは山々だ。しかしそれができないから、こうして浮かない顔をしている。 実際、シリウスの発言を聞いたはおもむろに悲しそうな目をした。ヴァイオレット色の瞳が揺れている。 シリウスはすぐに自分の失言に気付き、今度は言葉を選んだ。 「あ、えーとな・・っじゃあ一緒に練習しようぜ!俺たちが飛び方を教えてやるよ!」 な、ジェームズ!とジェームズの肩を叩き、シリウスが提案した。 ジェームズはにっこりと笑って、快く了承する。 「もちろんさ!飛行術なら僕らに任せてよ!!」 「ちょっと待った。ジェームズはさっき、ピーターに飛び方を教える約束をしたんじゃなかったかい?」 「あ、いや。でも・・っ」 「ポッター、貴方はのことを気にしなくていいわ。ピーターにしっかり教えてあげてちょうだい」 鋭いリーマスの指摘とリリーの言葉により、ジェームズはピーターの練習に付き合うことになった。 もちろんピーターはそれがジェームズにとって嬉しくないことだとわかっていたため、とても申し訳なさそうに眉根を下げている。 ジェームズの様子は嬉しそうとは程遠かったが、その後はピーターにしょげた面持ちを見せていなかった。 眼鏡の奥のハシバミ色の瞳は、いつも通りの自信を放っている。よっぽど飛行術には自信があるらしい。 リリーはジェームズが遠ざかったのを確認すると、ふんと鼻を鳴らした。 どうやら先日ジェームズがに顔を寄せていたことを許してはいないらしい。 「さあ、頑張って飛べるようにしましょう」 元気づけてくれるリリーに、はぎこちなく笑顔を見せた。 リリーもシリウスもリーマスも・・が飛べるように協力してくれるのだ。きちんと練習に取り組んで、それに応えなくては。 一度息を全部吐き出してから呼吸を整え、は箒に跨る。 するとふいに横から手が伸びてきて、の箒の柄を掴んだ。 「いいか?まずはしっかり『飛びたい』って思うんだ。おどおどしてるようじゃ、箒は飛んでくれないからな」 「・・・う、うんっ」 伸びてきた手はシリウスのもので、は虚を突かれながらも頷いた。 隣で箒に跨るシリウスの声が直接耳朶に響くような距離感に、は少しどきどきしながら、シリウスの言うことに何度も頷いて返事を返した。 「俺が箒の柄を掴んで、一緒に飛んでやる。それで感覚を覚えてみよう」 「うん・・っ」 「ブラック、いきなり高く飛ばないでよっ?が怖い思いをしたら承知しないから!」 「わかってるって!」 リーマスはリリーと一緒に正面で二人を見守った。そうしないとリリーを宥める人がいないからだろう。 はシリウスの合図を待ち、なるべく心に平常心を保たせるよう努力した。 飛べないとか、飛ばないかもとか。そういう否定の感情を持ってはいけない。 飛びたい、飛べる。そう思いながら地を蹴るんだ。 「行くぞ?・・せーの!」 シリウスの言葉を思い出しながら、とん、とは地面を蹴り、上昇した。 ゆっくりと足の裏が地上から遠ざかり、自分を見上げるリリーとリーマスの心配そうな表情を見つめる。 自分一人で浮かんだ高さより、ずっと高い位置まで浮かんできている。 は初めて見る箒の上の景色に少しずつ恐怖を感じ始めた。 地に足がつくという安心感が失われていくということが、酷く恐ろしく感じた。 自分は今、地面に足がつかない所にいて、万が一落ちてしまえば怪我をしてしまう高さにいるという状況が、の体を震わせた。上手く身体が動かなくて、口も開けない・・軽く眩暈さえ覚えた。 その様子を見かねてか、シリウスが柔らかい口調で声をかける。 忘れかけていたが、シリウスはまだしっかりとの箒の柄を握ってくれていた。 「、ちゃんと前を向いてみな」 怖くてずっと下ばかりを見ていたは、その言葉を聞いてシリウスへと視線を向けた。 彼の整った顔立ちは、今まさにその美貌を惹き立てるような笑みを浮かべている。 心から楽しそうな笑顔。それはの落ち着かない心に、安心感を与えてくれた。 はごくりと唾を飲み込み、前屈みになっていた姿勢を少しだけ正した。 「・・・・・っすごい」 ほんの少し前を向いただけなのに、の表情は一変した。 目の前に広がる広大な緑の森に、美しい蒼の湖畔。その中心に佇むホグワーツ城。 この場所から見渡せるホグワーツの景色に、は瞳を輝かせた。 今まで塔に登ること以外でこんなふうに自然を見たことはなかった。 この景色は、箒に乗っているからこそ味わえるものなのだろう。 がこの絶景に見とれていると、傍らでシリウスがふっと笑ったのがわかった。その微笑みがとても優しく見えて、は頬に熱を感じる。 彼はハンサムだから、彼が笑うだけできっとほとんどの女の子が自分のようになってしまうに違いない。 「な、何で笑うのっ?」 「いや。やっと顔上げたな、って思って。お前俯いてばっかだから」 「だ、だって・・」 「でも箒の上では前向いてたほうがいいだろ?景色は良いし、空気も断然美味いしな」 本当はいつも堂々と顔を上げていたほうがいいに決まってる。 シリウスの言葉に、ちくりと胸が痛んだ。気の弱い自分を打ちのめすには最適の言い分だ。 瞳の色を見られるのを怖がって、好奇の目を避けたいがために床や地面を見つめてばかりの自分には、シリウスやジェームズの姿が眩しすぎる。 いつも胸を張って歩く彼らの姿は、いつも誇らしげで自信に満ち溢れている。それに対して自分は・・。 自己嫌悪に陥りかけたは、また表情を曇らせかけた。 「お前はもっと自分に自信持っていいと思う」 「・・・・・」 「・・まぁ、今すぐには無理でも、いつかその癖が直るといいな」 くしゃりとの柔らかい髪を撫で、シリウスが言葉をかけた。 今は無理しなくてもいいから、少しずつ頑張ろう。 そう言ってくれている気がして、は彼の優しさに感謝した。 普通の人ならばきっとすぐに呆れてしまうであろう自分の弱さを、彼は認めてくれた。 それがとても嬉しくて、どうにか少しでも報いたくて、はシリウスに微笑んだ。 「・・・ありがとう、シリウス」 そのはにかんだ微笑に、シリウスは何度もぽりぽりと頭を掻いた。心なしか、頬が赤く見える。 それが照れている証拠なんだと気付くと同時に、はシリウスが自分の箒の柄を放していたことを知った。 シリウスは短く悲鳴を上げた彼女を見て、今度は悪戯な笑みを浮かべていた。 |